昭和48年9月9日 特別奉修委員
人間は勝手なものでということは、あーただ願う事だけ、の信心を、ほんとに人間は勝手なものでという風に今日頂いたんですが。心からの神御報謝、いわゆるお礼の心というものがだんだん、いよいよ育ってこなければいけん。はあ聞いた時だけははあほんなことお礼ば申しあげなんならんと思うけれども、それがその隣からその時だけのものになってしまう。だから問題はだから信心が育つということは、ありがたいなあというお礼を言う心が育っていくことだというても、あの間違いじゃないと私は思うくらい。ですからお礼を申し上げることの、あのいかにお粗末であるかということをまあ色々かんずるですけれども、今あの、久留米の田中先生が今日お参りになっておる。いわゆる、まあ田中先生とことしては大きな問題で、まあ長々とお届けがあっておりましたように、そのお届けを聞かせて頂いてとる間に私が頂きますことが、あの大きな大木です、大木がもうこういっぱい木がし、し、あの、しこっておるのが、その根まで心眼で見えるんです。それがその根が小さい。だからこれで風でも吹いたら危ないな、倒れるなというような感じです。それで次にはこの鉛筆の芯の折れてるところを頂いた。それから私は、まあ感じるんですけれども、ご承知のように先生は、もう初代の石橋先生についてからのご信心ですからいわば長い。だからおかげを受けておるということはもう大変なことだとこう思うんです。もう本当にあのまあ場合には、それこそ周りの人を助けなさったこともあろう、ある場合にはどうでもできない道が、っとおりあわせ頂いて開けた時もあろうと。という風にその、おかげを頂いてきておるということが、いわゆる目に見えるこの、こ、葉がしこって、枝葉がしこっておるほどおかげを受けてあるわけです。ところがその根そのものはこまいという事。心そのものははっていないということ、本当の信心ははっていないとこういう訳なんです。そこで、なら今の願いでもです、たとえば難しいことのようだけれども、おかげをいただくと一心を決めなさいと。一心を出さなきゃいけん。そして、あの鉛筆の芯が折れ取るのだから、身を削り心を削りしてから、あの芯を出して、おかげを頂く。同時にんなら少し芯を削るということは、やはり犠牲をはらわなきゃいけない。こうおかげを受けておるところのもう、これをもうこのままにしておったら、あの風が吹いたら折れるような状態だから、これ今のうちに摘んでしまいなさい、きってしまいなさい、芽はまた次ぎ必ずすぐ、次ぎの春には出るんだと。だからここんところを一つ、あの芽と、しこっておるところが、あの、ちょうど糖分にその、なるように切らなきゃいけない。その切るところがね、私はお礼だと思うんですよ。そのお礼が、いわば、いうならば今朝からのご理解を頂くと、勝手な信心をしておるということだ。お願いだけの信心をしておる、そしておかげだけはこんなにも頂いておるということ。ですから、もう、私共でも信心させて頂いて、いつも平穏無事という時は別ですけれども、何かここにっという時にはです、本気で私はおかげを頂きすぎとることを気づかせてもろうて、お礼を申し上げなきゃいけない。本気で一心を、身を削り心を削り、言うならば、ここぞという時には一つ、犠牲を払うて、これはしっかりしこっておるとだけれども、切らなければ身がもてない、ね、ですからそういうところを、めいめいの信心のううえに思うてみなければいけないと思うんですよね。
えー、これは、あー田中先生のことではない、これはもう、私共みんながここんところを頂かしてもろうて、まあおかげを頂かなきゃならんと、まあ思わせて頂いたんですけれど。
んー、えー、お礼を申し上げるということが、あーいうならば、枝葉を切り落とすことだという風にまあ頂いて、それから田中先生のまた、次ぎのお届けを聞かせてもらいよってから、田中先生やっぱそうじゃろうがというて話したことでしたけれどもね、ご自分もやっぱりお知らせを頂いちゃるです。それが大きな木、それいっぱいしこっとる。ところが2回に渡って木の葉がバラバラバラバラとその、落ちるところを頂かれた。いわゆる、根の養分というものが少ないから、上に枝葉に送るだけのものがなくなってる。だから落ちよる、木の葉が落ちよる。だから落ちて(木の葉が ?)枯れなきゃならない。だから今のうちに剪定するというかね、切ってしまわなければ、私がいうたことと、先生自身が頂いてあることをです、そんなにしてこう、本当のことを分からせようとなさっておる。まあ本当のことを分かるということは、言うなら、あの、身を削り心を削りすることだけれども、いよいよ本心の玉を磨くことだ、そして改まっていくことだ、本気で一心をたてて修行をさせてもらうことだという事なんですけれども、んー。
神様はお知らせを下さる。もう私を通してまたお知らせを下さる。なら下さってです、ははあ本当にそうだという風になら田中先生自身がそこに自覚をなさらなければ、いくら先生が頂きよっちゃだめだということ。ならまたここにどうでも頂かなきゃならんというおかげ、おかげを頂いたら頂くようなことじゃなくて、本気で頂かなければ、という一心も、やはり、その身を削り心を削りさせてもらう修行からしかう生まれてこないという気がするです。今朝から、人間、人間は勝手なもので、ね、というようなご理解を頂いたが、なら勝手なものでということがです、ただ願うことばかり、というのが今日は勝手なものだ、勝手な信心だという風に頂いてもろうたのですから、今の田中先生のお取次ぎをさせてもらって、またそれを裏付けする用にですね、何十年おかげを受けてこられた。それはなるほど、ああいう、人のが真似をできない、いや人が出来ない、ああした典楽の舞の御用を頂いて、たくさん御用も頂いておられるけれども、まあだまあだそれがたったということじゃないちいうこと。うん、ですから本気で、一つあのいわばお礼の信心にならせて頂いて、願いは願わんでも頂けるようなおかげを頂くということが、信心の理想なんだけれども、私共は、(?)すると、お礼不足になって、おかげはこうしこっておるのに、根の方がしこってないといったようなことにね、を、何かの時に気づかせてもらう、何かの機会に神様がお知らせを下さる。そういう時に、私は一心発起してまた新たな信心を、あの一心発起させてらわなんときじゃないかという風に思うですね、どうぞ。
池尻 てるか